2013年11月15日

京都市東山区の清水寺で14日、夜の特別拝観を前にライトアップの試験点灯があり、「清水の舞台」が赤や黄色の紅葉の中に浮かび上がる。紅葉とともに古都の幻想的な夜

清水寺ライトアップ 紅葉見ごろは今月末
 京都市東山区の清水寺で14日、夜の特別拝観を前にライトアップの試験点灯があり、「清水の舞台」が赤や黄色の紅葉の中に浮かび上がった。
清水寺ライトアップ紅葉.jpg
 約500基のライトに明かりがともったのは午後6時半すぎ。上空には本尊である観音菩薩(ぼさつ)の慈悲を表すという青いサーチライトが横切り、紅葉とともに古都の幻想的な夜を演出した。

 清水寺によると、境内には約1000本のモミジがあり、見ごろは例年通りで今月下旬ごろ。

 夜の特別拝観は15日〜12月8日の午後6時半〜9時半。拝観料は大人400円、小中学生200円。
★清水寺
清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。

概要
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

歴史
創建伝承
清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺[1] で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

平安時代以降
延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。

清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

三職六坊
豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。

このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。

明治維新までは、清水寺は法相宗に真言宗を兼ねていた。その名残が大日堂や三重塔に残されている。

近代
近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875年 - 1983年)が清水寺の貫主(住職)に就任する。大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は昭和41年(1966年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、昭和49年(1974年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。 現貫主は、森清範が務めている。

各地の同名寺院
日本各地に「清水寺」(きよみずでら、せいすいじ)を名乗る寺院が多数あり、中には坂上田村麻呂の開創ないし中興の伝説を有するものもある。岩手県花巻市の音羽山清水寺は田村麻呂の開創を伝える。長野県山形村の慈眼山清水寺は田村麻呂の中興を伝え、この寺の千手観音像が京都にもたらされて東山の清水寺になったという。岐阜県加茂郡富加町の「白華山清水寺」は田村麻呂と延鎮による草創を伝える。

境内
参道
東大路通の清水道交差点から清水寺までの約1.2キロの坂道は清水道と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。この道は松原通(かつての五条通)の延長である。その南、東山五条の交差点から北東に上り、清水道に合流する五条坂も参詣道となっている。さらに、五条坂の途中から分岐して清水寺仁王門付近に達する清水新道(茶わん坂)もある。これらの参道が開けたのは近世以降のことであり、中世までは八坂の塔(法観寺)を経て産寧坂(三年坂)を南方向へ上り、経書堂(きょうかくどう)のところで左(東)へ折れるルートが参道であった。

境内の概要
境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。北には清水寺本坊の成就院がある。

このほか、本堂のすぐ北隣に地主神社(じしゅじんじゃ)があり、明治以降は神仏分離により独立したが、もともとは鎮守社として清水寺の一部であった。

本堂
国宝。徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『法華経』「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものである。なお、同じく観音霊場である長谷寺や石山寺の本堂も同様の「懸造」である。

内々陣には、3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。三尊とも秘仏である。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件[2] に上り、生存率は85.4パーセントであった。明治5年(1872年)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで(これは写真に残っている)、下火になったという。

その他の建造物等
経書堂(きょうかくどう) - 清水道の途中、清水道、五条坂、三年坂(産寧坂)の合流点の北側にある。清水寺塔頭の来迎院の仏堂である。能の「熊野」(ゆや)に「経書堂はこれかとよ」という台詞で登場する。
大日堂 - 経書堂の東方、清水道の途中の北側にある。清水寺塔頭の真福寺の仏堂である。ここに安置されていた大日如来像(重要文化財)は宝蔵殿に移されている。
仁王門(重要文化財) - 境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置する。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6年(1629年)の大火をまぬがれた。
馬駐(重要文化財) - 仁王門前の右(北)に建つ、切妻造、瓦葺きの簡素な建物。その名の通り、参詣者が馬を繋いだところで、室町時代の建立である。
西門(重要文化財) - 仁王門をくぐって右方の小高い位置に建つ。寛永8年(1631年)の建立。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門である。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股(かえるまた)などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のように見え、特殊な用途をもった建物と推定されている。
三重塔(重要文化財) - 西門の先に建つ和様の塔。寛永再興時の再建。高さ30.1メートル。昭和62年(1987年)に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造形されて、中央には大日如来が安置されている。
随求堂(ずいぐどう) - 仁王門から参道を進んだ正面に位置する。もとは塔頭慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735年)に建立された。本尊の秘仏・大随求菩薩像は八臂の坐像で、享保18年(1733年)の作である。脇侍として吉祥天立像と毘沙門天立像(重要文化財)を安置していたが、後者は宝蔵殿に移されている。堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われている。
経堂(重要文化財) - 三重塔の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの五間堂。寛永再興時の再建。内部には釈迦三尊像(脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩)を安置する。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。
田村堂(重要文化財) - 経堂の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。開山堂とも称する。寛永再興時の再建。内部には開放形の厨子内に坂上田村麻呂夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀る。いずれも清水寺創建に関わる人物である。堂内は通常は非公開。
朝倉堂(重要文化財) - 拝観受付所と本堂を結ぶ廊下の北側にある。入母屋造、瓦葺きの五間堂。清水観音を篤く信仰した、越前の守護大名朝倉貞景の寄進した建物だったことから朝倉堂と称するが、現在の建物は寛永再興時の再建。内部には秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊のほか、西国三十三所の観音像を安置する。堂内は通常は非公開。
釈迦堂(重要文化財) - 本堂の先の山腹に建つ、寄棟造、檜皮葺きの三間堂。寛永再興時の再建。昭和47年(1972年)の集中豪雨による土砂崩れで倒壊し、3年後に旧材をもって復元された。
阿弥陀堂(重要文化財) - 釈迦堂の右(南)に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。寛永再興時の再建。前面の旧外陣部分を改造して奥の院への通路としている。内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の額が架かる。文治4年(1188年)、法然がこの地で念仏を修したとの故事により、法然上人二十五霊場の十三番とされている。
奥の院(重要文化財) - 阿弥陀堂の先(南)、本堂の全貌を見渡すことができる位置に建つ、寄棟造、檜皮葺きの五間堂。寛永再興時の再建。本堂より小規模ながら、崖にせり出した懸造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩、二十八部衆、風神・雷神の諸仏を安置する。ただし中尊は本堂本尊と異なり坐像である。
音羽の滝 - 奥の院の建つ崖の下にある、清水寺の寺号の由来である霊水で、3本の筧(かけい)から水が流れ落ちている。
アテルイとモレの慰霊碑 - 坂上田村麻呂のゆかりから、平安建都1200年を期して1994年に建立されたもので、音羽の滝から仁王門方面へ戻る道の左手に立つ。碑面には「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」とある。
子安塔(重要文化財) - 奥の院前の道を南の清閑寺方面へ歩いた先にある、塔頭・泰産寺の三重塔。寛永再興時の再建。高さは15メートルで、仁王門近くにある三重塔の約半分である。元は仁王門下の南側、警備詰所のあたりにあったが、明治44年(1911年)現在地に移築された。名前のとおり、安産に大きな信仰を集めてきた。
成就院 - 境内北方にある、清水寺の本坊。池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常は非公開である。なお、内部での撮影は原則として禁止となっている。2010年に中島潔が46枚の襖絵「かぐや姫・風の故郷(春夏)・風の故郷(秋冬)・大漁」を奉納した。
大講堂 - 仁王門の北方に建つ。創建1,200年を期に昭和59年(1984年)完成したもので、中央の多宝閣と東西棟からなる。多宝閣は4階吹き抜けで、1階には大仏足石がある。東棟は1階が寺務所・宗務所、2階が文化財を収蔵する宝蔵殿(非公開)、西棟は1階が各種法要、行事などの会場となる円通殿、2階が迎賓殿である。
地主神社 - 本堂の北にある、元は清水寺の鎮守社で、現在では縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は清水寺本堂と同じく寛永10年(1633年)の再建である。ちなみに清水寺・仁王門前にある狛犬は地主神社のものである。明治の神仏分離により清水寺から独立しているが、歴史的経緯から世界遺産「古都京都の文化財」の清水寺の一部として登録されている。

本尊
本堂本尊

清水寺本堂本尊の千手観音立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない[3]。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した彫像、画像が日本各地に存在する[4]。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。

本堂本尊は、20世紀末以降では以下の機会に開帳された。
2000年3月3日から同年12月3日まで(33年に一度の開帳)
2008年9月1日から11月30日まで、及び2009年3月1日から5月31日まで(西国三十三所巡礼の中興者とされる花山法皇一千年忌記念の結縁開帳)

奥の院本尊
奥の院本尊の秘仏千手観音坐像(重要文化財)は、鎌倉時代の作で一木割矧造、像高63.9センチメートル。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に24の小面を乗せ、計27面をもつ特異な形の像である。本面と左右脇面は額に縦の眼を有する三眼とすること、膝前で組み合わせる宝鉢手は親指と人差し指で輪をつくる、阿弥陀如来と同様の印相とすること、光背に観音の三十三応現身を表すことなど、図像的に特異な点が多い。作風には快慶風が強いが、作者を快慶と同定するには至っていない。

本像は2002年に重要文化財に指定され、翌2003年3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。また、2008年8月から11月にかけて奈良国立博物館及び名古屋市博物館で開催された特別展「西国三十三所」に出陳された。

文化財

国宝
本堂 附:厨子3基
文化財保護法第2条[5] に基づき、建物とともに清水寺境内地も1993年9月1日付けで国宝に追加指定されている。

重要文化財(建造物)
仁王門 - 室町時代
馬駐(うまとどめ) - 室町時代
西門
三重塔
鐘楼 - 慶長12年(1607年)
経堂
田村堂(開山堂)附:厨子1基
朝倉堂 附:厨子1基
鎮守堂(春日社)
本坊北総門
轟門
釈迦堂
阿弥陀堂
奥の院 附:厨子1基
子安塔
地主神社本殿・拝殿・総門 地主神社境内地も社殿と一体をなして価値を形成するものとして重要文化財に指定されている。

以上の建物のうち特記のないものは寛永年間(1630年代)の建立である。


重要文化財(美術工芸品)
木造千手観音坐像(奥の院本尊)
木造十一面観音立像 - 本堂本尊の十一面千手観音立像とは別個の像である。
木造伝・観音菩薩・勢至菩薩立像(もと阿弥陀堂安置)
木造大日如来坐像(もと真福寺大日堂安置)
木造毘沙門天立像(塔頭慈心院所有)
渡海船額(末吉船図3・角倉船図1)4面
板絵朝比奈草摺曳図(伝・長谷川久蔵筆)
京都市内の社寺に残る大絵馬では最古のもので、寛永6年(1629年)の旧本堂炎上の際、これ1点のみ焼け残ったもの。天正20年(1592年)の奉納銘があり、筆者は長谷川等伯の子・久蔵とされている。鉄鰐口(もと阿弥陀堂所在)
梵鐘 - 文明10年(1478年)銘

重要文化財の仏像のうち、千手観音坐像は秘仏、その他の像は宝蔵殿に収蔵され非公開である。本堂本尊の秘仏千手観音像は指定文化財ではない。

その他
算額 - 明治25年に池内善之助、伊三郎が奉納

御詠歌
松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん
 作者は松尾芭蕉。

札所
西国三十三所観音霊場 第16番
法然上人二十五霊跡 第13番(阿弥陀堂)
洛陽三十三所観音霊場 第10番(善光寺堂)、第11番(奥の院)、第12番(本堂)、第13番(朝倉堂)、第14番(泰産寺)
神仏霊場巡拝の道117番(京都37番)

前後の札所
西国三十三所15 今熊野観音寺 -- 16 清水寺 -- 17 六波羅蜜寺
雑学
今年の漢字毎年漢字の日の12月12日14時頃(ただし事情によりずれる場合もある)に、財団法人日本漢字能力検定協会主催により一般公募で選ばれたその年の世相を、清水寺の貫主である森清範が漢字一字を揮毫する「今年の漢字」が清水寺の舞台で発表される。今年の漢字を書く森清範貫主の書(直筆書)は、「京都八福庵」という公許取扱処により管理されている。新・世界七不思議スイスの財団が実施している「新・世界七不思議」を選ぶ取り組みにおいて、京都市東山区の清水寺が日本で唯一、中国の万里の長城やフランスのエッフェル塔などとともに有識者から選ばれ、それを記念して財団から賞状を受けた。インターネットと電話により一般からの投票が行われていたが、2007年7月7日にリスボンで発表された最終結果では次選となった。清水寺が登場する文学作品平安時代以来、『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及され、『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する作品がある。
その他
清水寺貫主の大西良慶が、本寺を法相宗から独立させ北法相宗を設立した。大西は晩年には日本最高齢者となったこともあり、日本初の五つ子の名付け親にもなった。
1985年、京都市が市内の観光寺院へ古都保存協力税の特別徴収義務者を依頼したが清水寺は拒否、他の寺と古都税騒動と呼ばれる政治事件を起こした。
1回100円の綺麗な有料トイレがある。

アクセス
京阪電気鉄道京阪本線「清水五条駅」下車徒歩約22分、または「祇園四条駅」下車徒歩約25分
「清水道」または「五条坂」バス停(京都市営バス80・急行100・202・206・207系統、京阪バス83・83A・84・84C・85・85A・86・86A・86B・87・87A・87B・88・88B・88C系統)下車徒歩約25分。
最寄りバス停は「五条坂」から五条坂経由、又は「清水道」から清水坂経由で行くのが近いが、五条坂は観光バスの通行が多く、清水坂(松原通)も五条坂との合流点まではタクシーや一般車の通行が多い。少し遠回りになるが、清水道バス停からすぐ北側の信号を東側に曲がる八坂通を通行したほうが車も少なく、法観寺の八坂の塔を見ながらの石畳道で風情があるのだが、京都駅方面からのバスは五条坂バス停で清水寺方面の乗客の下車を促す案内放送をあえて流す。これは五条坂から乗車する乗客も多いため、五条坂と清水道の両バス停間のバスの混雑を避ける措置である。
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2013年11月14日

ピンクダイヤモンド、「ピンク・スター(Pink Star)」が13日、スイス・ジュネーブで1つの宝石としては史上最高額の7632万スイス・フラン(約83億円)で落札



果実のプラムほどの大きさのピンクダイヤモンド、「ピンク・スター(Pink Star)」が13日、スイス・ジュネーブ(Geneva)で競売大手サザビーズ(Sotheby's)の競売にかけられ、1つの宝石としては史上最高額の7632万スイス・フラン(約83億円)で落札された。

59.60カラットのピンク・スターは、ジュネーブ湖(Lake Geneva)のほとりにある高級ホテル、ボー・リバージュ・ホテル(Beau Rivage Hotel)で行われた高級ジュエリー・オークションの目玉だった。この日のオークションに掛けられる最後から2番目の品として、競売人の隣に立ったモデルが指輪に付けたこのダイヤを見せると、会場にはどよめきが上がった。

オークションはスイス・フラン建てで行われ、価格は4800万フラン(約52億円)から100万フラン(約1億1000万円)単位で上げられていった。入札価格が6700万フラン(約73億円)を超えると長い沈黙が続き、その後、電話参加ではなく、会場にいた人が6800万フラン(約74億円)で落札した。

サザビーズによると、落札したのはニューヨーク(New York)のダイヤモンド研磨工、アイザック・ウォルフ(Isaac Wolf)さん。落札したダイヤの名称を「ザ・ピンク・ドリーム(The Pink Dream)」に変える考えだという。サザビーズが受け取る手数料を含め、落札者が支払う金額は最終的に7632万フランになる。予想落札価格は、6000万ドル(約59億5300万円)だった。

落札者が決定すると、会場にいた約150人からは拍手が湧き起こり、映画『ピンクパンサー(Pink Panther)』のテーマ曲が流される演出と共に、スタッフからピンクシャンパンのグラスが配られた。

■「真に高貴な宝石」

光輝くオーバルカットの「ピンク・スター」 は、縦2.69センチ、横2.06センチで、重さは11.92グラム。色とクラリティ(内包物の少なさ)はともに最高評価クラスで、サザビーズの欧州・中東地域宝石部門のデービッド・ベネット(David Bennett)会長は「真にすばらしく、高貴な宝石であると、ためらいなく言える。このサイズと色の宝石は他に存在が知られていない」と話している。

サザビーズによると、1999年にアフリカでダイヤ最大手デビアス(De Beers)によって採掘された際の原石の状態では132.5カラットだった。産出国は明らかにされていない。

発見後、シュタインメッツ・ダイヤモンズ(Steinmetz Diamonds)が2年をかけてカットと研磨を施し、「シュタインメッツ・ピンク(Steinmetz Pink)」として2003年に公開。その4年後には売却され、名称が変更されたが、当時の価格、購入者ともに公表されていない。

サザビーズは13日のオークションでも出品者を明らかにしておらず、2007年以降に売買されていたか否かについても公表していない。

■景気低迷で高まる宝石人気

ダイヤモンドのほか、この日のオークションでは114.74カラットのサファイヤが予想落札最高価格の2倍に近い760万フラン(約8億2600万円)で落札された。

アナリストらは、経済情勢の先行きが不透明な時期には、投資家らが宝石に目を向ける傾向がある点を指摘している。増加する世界の富裕層にとっても、宝石の所有はステータスになる。

また、サザビーズのベネット氏は、「ここ30年で、市場は完全に国際化した」と話している。
posted by kisebeauty50 at 12:09| Comment(0) | アクセサリー・装飾品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月02日

大阪府出身の大学2年生、森友里恵さん(20)が2014年東レ水着キャンペーンガールに選ばれる

女優の藤原紀香、菊川怜らを輩出した東レ水着キャンペーンガールが31日、東京都内で発表され、大阪府出身の大学2年生、森友里恵さん(20)がお披露目された。応募者146人の中から3回のオーディションを経て選出された。

森友里恵.jpg

 ファッションモデルとしても活躍中の森さんは、身長167センチ、バスト83センチ、ウエスト58センチ、ピップ83センチと美しいプロポーションの持ち主。特技のチアリーディングをビキニ姿で披露した。
 キャンペーンガール決定の連絡があった日はうれしくてずっと踊っていたという森さん、「恥ないように役目を務めたい」と抱負を語った。

◆東レ水着ガールに森友里恵!目標は大先輩の藤原紀香

 女優の山口智子(49)、藤原紀香(42)らを輩出した東レの2014年水着キャンペーンガールに大阪府出身の大学2年生でモデル、森友里恵(20)が決まり31日、都内で発表された。

 1メートル67、B83W58H83の抜群のスタイルを誇る森は「イルカのように丸く突き出たオデコ」がチャームポイント。あこがれは同じ関西出身の紀香(兵庫出身)と明かし、「私のスーパーポジティブな性格を生かして(PRに)貢献したい」と抱負を語った。

◆14年東レ水着キャンペーンガールに森友里恵

 東レは31日、2014年の水着キャンペーンガールに、大学2年生でモデルの森友里恵(20)を起用すると発表した。この日、東京都内で記者会見した森さんは「私のスーパーポジティブな性格を生かして(PRに)貢献したい」と抱負を語った。

 東レは、14年シーズン(13年9月〜14年8月)のテーマに「メリーメリーフレッシュ」を掲げ、青い空や海に合う爽やかで陽気なイメージの水着を提案している。1980年代に流行したワンピースが久々に復活。特殊な糸を使い、さらっとした肌触りが特長の素材も新たに採用する。

 2013年シーズンの水着の販売実績は、夏場に天候に恵まれたこともあって前年比3%増の 810万枚だった。14年シーズンは2%増を目指す。

東レの歴代キャンペーンガールには、女優の山口智子や藤原紀香らがいる。

●森友里恵の公式ブログ
http://ameblo.jp/yurie-mori/
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2013年11月01日

愛知県在住の西村真弓さん(39歳)が「第4回国民的"美魔女"コンテスト」グランプリに選ばれた。「女性には持っている美しさがある」

第4回国民的美魔女コンテスト、愛知在住の主婦・西村真弓さんがグランプリ
光文社主催の「第4回国民的"美魔女"コンテスト」最終選考会が29日、東京・品川のグランドプリンスホテル高輪で行われ、愛知県在住の西村真弓さん(39歳)がグランプリに選ばれた。

西村真弓.jpg

同コンテストは、年齢を感じさせない美しさを持つ女性の真の"美魔女"の発掘するために、2010年から光文社発行の雑誌『美ST』が主催するコンテスト。今年は過去最高の約2400名が応募し、この日はWEB投票などで選ばれた20人のファイナリストが最終選考に臨んだ。1部のハロウィンコレクションに続いて、2部では水着やドレス審査を実施。その後、審査員による審査の結果、愛知県在住で主婦の西村真弓さんがグランプリに選ばれた。

名前を呼ばれて思わず涙ぐんだ西村さんは「皆さん本当にありがとうございます。本当に突然のことで、予想していませんでしたが、感激しています」と喜び、「私は今普通の主婦をしていますが、普通の主婦でも輝ける場所があるということ、そしてたくさんの女性に皆さんが持っている美しさがあることを公言できたらと思い参加させてもらいました。本当にこのような賞をいただいて感動しています」と満面の笑みを見せた。

また、「まったく自信はありませんでしたが、ファイナリストに決まってから、(最終審査の)舞台に立った時に恥ずかしくないよう自分に勝ちたいと思いました。まさかグランプリになるとは思わなかったですね」と語り、「普段はエステに行きませんが、1カ月主人がエステを予約してくれたりと、応援してくれました。早く主人に伝えたいですし、抱きつきたいです(笑)」と家族のサポートに感謝しきりだった。

また、グランプリ以外には、準グランプリに東京都在住の秋田陽子さん(40歳)、WEB賞に三重県在住の服部佐知子さん(48歳)、ジュネーブ美魔女賞に千葉県在住の小林久美子さん(40歳)、スリム美魔女賞に東京都在住の日向琴子さん(37歳)、ポンキュッポン美魔女賞に大阪府在住の井上和子さん(41歳)、スカルプ美魔女賞に東京都在住の竹山亜紀子さん(43歳)がそれぞれ選ばれた。

★西村真弓

西村真弓1.jpg

名前:西村 真弓
住所:愛知県
生年月日:1974年5月25日
身長:164cm体重:52kgB
スリーサイズ:85cmW:64cmH:89cm
血液型:A型
職業:主婦
家族構成:夫趣味・特技:姪と甥と遊ぶこと、読書、料理、ドライブ
下着メーカーに20年勤務。「美しさは特別な人だけにあるのではなく、今は美しさが足らずとも、誰にでも多くの美しさが眠っていて美を育てる≠アとができると思います。10年後、20年後、その先もずーっと輝く女性でありたい」

◆美魔女コンテストとは
「外見美」「知的美」を両立、包含する「才色兼備」な美しき大人の女性達「美魔女」。真の大人の「才色兼備」のコンテスト。

◆第4回美魔女コンテストのファイナりスト

★秋田 陽子

住所|東京都 生年月日|1973年5月19日
身長|165cm 体重|43kg 血液型|O型
スリーサイズ|B:80 W:59 H:86
職業|モデル 家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|ファッション、美容コスメ、料理、体がやわらかい

★魚谷 泰子

住所|兵庫県 生年月日|1973年10月27日
身長|164cm 体重|50kg 血液型|B型
スリーサイズ|B:76 W:60 H:80
職業|主婦
家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|ロードレース

★大野 みどり

住所|東京都 生年月日|1953年4月2日
身長|150cm 体重|39kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:78 W:56 H:82
職業|食空間コーディネーター
家族構成|夫
趣味・特技|ボランティア活動、美味しいお弁当作り

★岡本 英子

住所|神奈川県 生年月日|1964年9月19日
身長|160cm 体重|46kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:83 W:60 H:84
職業|会社役員
家族構成|夫、子供2人、犬11匹、猫4匹、亀6匹
趣味・特技|旅行、動物愛護活動

★奥本 有里

住所|東京都 生年月日|1977年3月8日
身長|163cm 体重|46kg 血液型|B型
スリーサイズ|B:88 W:60 H:88
職業|スピリチュアルカウンセラー
家族構成|子供2人
趣味・特技|アウトドアスポーツ、ドライブ、茶道

★梶原 知枝

住所|岐阜県 生年月日|1972年12月5日
身長|165cm 体重|43kg 血液型|O型
スリーサイズ|B:82 W:56 H:84
職業|主婦
家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|食べ歩き

★鎌田 真理

住所|東京都 生年月日|1971年8月29日
身長|169cm 体重|48kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:85 W:58 H:87
職業|エステサロン経営
家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|旅行、ゴルフ、料理、長距離ランニング

★吉良 安澄

住所|大阪府 生年月日|1975年3月17日
身長|158cm 体重|47.5kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:93 W:60 H:92
職業|香りのスタイリスト
家族構成|独身
趣味・特技|スキューバーダイビング、コスメ集め、EXILEのライブ参戦・DVD鑑賞

★小林 久美子

住所|千葉県 生年月日|1977年7月28日
身長|167cm 体重|50kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:83 W:63 H:88
職業|カフェ経営
家族構成|独身
趣味・特技|ランニング、ヨガ、サーフィン、料理

★小林 美香子

住所|大阪府 生年月日|1972年12月23日
身長|158cm 体重|45kg 血液型|O型
スリーサイズ|B:78 W:56 H:80
職業|エステサロンマネージャー
家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|汗をかくこと、読書、スキューバーダイビング、美容、映画鑑賞、お酒

★佐藤 まゆみ

住所|東京都 生年月日|1965年5月19日
身長|164cm 体重|50kg 血液型|B型
スリーサイズ|B:86 W:61 H:59
職業|会社員
家族構成|夫、子供3人
趣味・特技|バッグ・洋服作り、歌、どこでも寝られる

★竹内 栄子

住所|埼玉県 生年月日|1967年12月20日
身長|161cm 体重|49kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:83 W:62 H:85
職業|美容師
家族構成|子供2人
趣味・特技|加圧トレーニング、着付け

★竹山 亜紀子

住所|東京都 生年月日|1970年1月7日
身長|168cm 体重|50kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:88 W:62 H:88
職業|主婦
家族構成|夫、子供1人
趣味・特技|温泉、バイオリン、暗算、手話

★西田 清美

住所|東京都 生年月日|1970年10月28日
身長|156cm 体重|44kg 血液型|B型
スリーサイズ|B:85 W:60 H:87
職業|ビューティセラピスト
家族構成|息子1人
趣味・特技|ベリーダンス、エステ巡り

★西村 真弓

住所|愛知県 生年月日|1974年5月25日
身長|164cm 体重|52kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:85 W:64 H:89
職業|主婦
家族構成|夫
趣味・特技|姪と甥と遊ぶこと、読書、料理、ドライブ

★服部 佐知子

住所|三重県 生年月日|1965年12月20日
身長|162cm 体重|48kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:80 W:62 H:85
職業|行政書士
家族構成|子供2人
趣味・特技|スキューバーダイビング、食べ歩き

★春次 美希子

住所|兵庫県 生年月日|1972年7月2日
身長|160cm 体重|47kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:83 W:61 H:85
職業|医療法人理事
家族構成|夫、子供1人
趣味・特技|マラソン、旅行、美術鑑賞、料理、フルート、書道、ドライブ

★日向 琴子

住所|東京都 生年月日|1976年5月15日
身長|167cm 体重|52kg 血液型|B型
スリーサイズ|B:90 W:64 H:88
職業|漫画家
家族構成|独身

趣味・特技|整形級の変身メイク、秘境駅探訪

★吉井 優子

住所|埼玉県 生年月日|1977年9月21日
身長|165cm 体重|49kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:88 W:62 H:89
職業|主婦
家族構成|夫、子供2人
趣味・特技|映画鑑賞、洗濯物のしみ抜き

★吉田 佐知子

住所|愛知県 生年月日|1974年10月21日
身長|163cm 体重|49kg 血液型|A型
スリーサイズ|B:80 W:61 H:86
職業|ダイエットサロン主宰
家族構成|夫、子供3人
趣味・特技|旅行、ランニング&ウォーキング

◆60歳ほかビキニ率95%「第4回美魔女コンテスト」

 第4回「国民的“美魔女”コンテスト」最終選考会が開催され、グランプリには西村真弓さん(39歳・主婦)が、準グランプリには秋田陽子さん(40歳・モデル)が輝いた。今年で4年目となる同コンテストは、雑誌「美ST」が主催しており、今回も約2400名の読者から応募があったという。彼女たちを突き動かすそのパワーは何なのか?

 ファイナリストは、36歳から、なんと60歳までという20人。審査内容は、ハロウィンにちなんだ仮装での自己PR、水着審査、ドレス審査。自己PRでは、歌唱、ダンス、スピーチなどが披露された。特技といえるクオリティーでない候補者ももちろんいたが、披露後の照れ笑いなども「美しさ」の評価対象なのだろう。

 水着審査では、20人中19人がビキニで登場。同コンテスト最年長となる大野みどりさん(60歳・主婦)もパレオ付きではあるが堂々とビキニで登場。美のために「健康」を第一に、3年前からジム通いをしているほか、自分でマッサージやストレッチも欠かさないという。選挙で数多くの候補者のウグイス嬢をしてきたという彼女。ステージでも「みなさんより20年長く生きております」「経験と実績があります」と見事な自己アピール。さすがの説得力だった。

 他の候補者たちも、堂々としたウォーキングを見ていると人前に出ることに慣れていると思いきや、「夫に選んでもらってビキニ初挑戦です」と照れている候補者もいた。


 また、「ダイエットに失敗したらショートパンツにしようと思っていました」といった候補者もおり、いずれも最終選考会に向けて、ダイエットやエステなどの自分磨きに努力したことがうかがえた。ドレス審査でも、背中が大きく開いたものや、脚が目立つデザインのドレスを着ている候補者が多く、磨き上げたその「美」を惜しげも無く披露していた。

 候補者たちの「美」は、どこから来るのか? 選考会で語られた「美の格言」をみてみよう。「美は一日にしてならず」佐藤まゆみさん(48歳・会社員)に近い意味の格言は数人の候補者が挙げていた。ほかにも、「美は愛と健康に宿る」日向琴子さん(37歳・漫画家)、「美しは力なり」小林美香子さん(40歳・エステサロンマネージャー)など、「美」への確固としたポリシーを抱いているようだ。

 ちなみに、グランプリの西村さんは夫と2人暮らしの主婦。選考会に向けては、普段は行かないというエステやネイルサロンを夫に予約してもらっていたとか。終了後の会見でも「早く抱きつきたい」と語っており、夫の理解と愛情もまた、妻の美しさを保つ秘けつなのかもしれない……。

 自身のたゆまぬ努力と周囲の協力によって出来上がる「美魔女」の存在に圧倒された取材を終えて会場を出た記者。帰り道で「●番の人はぜんっぜんオーラなかったわよね。私の方がオーラあるんじゃない?」と話していた観客女性の言葉にある意味一番圧倒されたのでありました……。
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2013年10月29日

京都市上京区の浄福寺で、秘仏「栴檀瑞像釈迦牟尼仏」(高さ1・3メートル)と釈迦堂内部が約100年ぶりに公開

京都で約100年ぶりに秘仏公開 浄福寺、釈迦堂内部も

 約100年ぶりに公開されるのを前に、報道陣に公開された秘仏「栴檀瑞像釈迦牟尼仏」=京都市上京区の浄福寺

栴檀瑞像釈迦牟尼仏.jpg

 京都市上京区の浄福寺で、秘仏「栴檀瑞像釈迦牟尼仏」(高さ1・3メートル)と釈迦堂内部が約100年ぶりに公開されるのを前に、29日に報道陣に公開された。一般公開は11月1〜10日。

 秘仏は、清凉寺(京都市右京区)に祭られている「三国伝来生身釈迦如来立像」(国宝)を鎌倉時代にまねて造った最初の像とされる。

 釈迦堂は総ケヤキ造り。1756年に建立された。建物の土台にひずみが出ていたため、あまり使われておらず、2011年から木材を解体し、修復工事をしていた。
◆浄福寺 お釈迦さまの話を聞きたい「ふれあい体験型」
 秋の「京都非公開文化財特別公開」が11月1日から10日まで、京都市、宇治市、八幡市の京都府内21カ所で開かれます。普段は拝観できない社寺などで、文化財が見られる貴重な10日間。◆百年ぶりの釈迦堂公開


 浄福寺では、2011年から解体修理をしていた釈迦堂(京都市指定文化財)が、今回の公開に合わせて完成します。1756年(宝暦6年)建立の釈迦堂が公開されるのは100年ぶりのことで、初日11月1日は午前9時から、式典が開催されます。「お寺でこういう時は、法要をするのが一般的なのですが、法要と言うと、どうしてもお坊さんとかお檀家さんの代表だけになってしまいます。そうではなく、全てのお檀家さんや、ご近所の方、全国から来てくださる方々の前でご披露をしたいなと思い、どちらかと言えばデパートのオープン式のようなことをいたします」。そう語るのは、住職の菅原好規さん。菅原住職は、幼稚園の園長でもあり、またバンドを組んで各地で法話を交えたパフォーマンスを披露するなど、多彩な活動を行っています。式典では、住職が作詞した釈迦堂のテーマソング「三国伝来のお釈迦さま」の初披露や、参加者全員でクス玉割りなども行われるそうです。


 また釈迦堂のオープンに合わせて、秘仏の本尊「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)釈迦牟尼仏」が初公開されます。菅原住職は、釈迦の由来について話をしてくれました。「三国伝来のお釈迦さま。これはインド、中国、日本と伝わってきたお釈迦さまという意味でございます。栴檀瑞像のお釈迦さま。お釈迦さまが約2500年前、現役で布教活動をされていたときに、そのお姿を後世に残そうということになりました。今みたいに写真はございませんから、お釈迦さまを見ながら、栴檀の木で木像を作られて、それが栴檀瑞像のお釈迦さまでございます…」。その朗らかな口調は、まるで落語の小話のようで、自然と引き込まれていきます。


◆仏の教えをやさしい言葉で


 お釈迦さまの話を聞きたい――。そんな希望が、近ごろは特に若者から多くあるそうです。「時代の要望と申しましょうか…」と菅原住職はしみじみ。特別公開の期間中は、毎日1時間おきに7〜8回、住職による「絵解き法話」が行われます。今回のテーマは「釈迦一代記」。釈迦の誕生から悟りまで、そして亡くなった後、と涅槃図の周りに十六枚の絵が付いている十六相涅槃図を使用し、釈迦の生前の姿を写した絵を中心に、菅原住職がやさしい言葉で仏の教えを語ります。ほかにも絵や写真を使い、紙芝居のようにストーリーを組み立てるなど、さまざまな工夫を凝らしています。「住職の絵解きにはファンがいらっしゃいます。この機会にぜひ聞いていただきたいですね」と京都古文化保存協会の後藤さんも一押しの絵解き。

 「…自然は絶えず変化していく。私の心も、今幸せだったとしても、その幸せがずっと続くかというと、そんなことはないですね。でもそれが絶対続いてほしいと思ってしまうと、そこに悩みや苦しみが発生してくる。悩みや苦しみの大きな元というのが諸行無常、もう一つが諸法無我といいます。涅槃図にはいろんな動物が描いてある。すべてのものはお互いにつながり合っている。誰ひとりとしてぽつんと一人では生きることはできない。もっと突っ込んでいいますとね、私はこのお猿ちゃんが大好きだと言ってね、この猿だけを、みんながつながっている中から切り取って、自分一人のものにすることはできない。この世のすべてのものは…」といった調子で、15分の法話はあっという間。その教えは心にすっと入ってきます。

◆地獄と極楽を手作りゲームで学ぶ


 また浄福寺では、子どもが楽しく仏教を学べる、しかけがたくさんあるのも特徴です。「地獄極楽コリントゲーム」という、玉を小棒で突いて盤上に転がす遊戯台や、「浄土双六」、「十界ゲーム」と称した輪投げなど、遊びを通して仏教用語を知ることができます。それらはすべて、住職の手作り。大人にとってはどこか懐かしさが感じられる場でもあります。


 浄福寺ではほかにも、本堂と方丈を公開。「日本最古の違法建築」と言われる本堂。外から見ると、二つの建物が並んでいるように見えますが、内部ではつながっており、一つの大きな間が広がっています。江戸時代、日本で初めて建築基準法のようなものが制定され、建物の奥行きが三間(約6メートル)以内に規制されました。そのとき浄福寺では「法の網の目をかいくぐって」その規制を逃れる工夫を凝らしたそうです。また方丈の天井には、一面いっぱいに龍が描かれた「天井龍図」(山田文厚・作)があります。絵の下でぱんと手をたたくと、室内が「びーん」と響くことから、そこは別名“鳴き龍の間”といわれています。


 様々な趣向を凝らした浄福寺の特別公開について、後藤さんは「ふれあい体験型」とほほ笑みます。菅原住職から仏の教えを直接聞き、100年ぶりに公開される釈迦堂を拝観し、お釈迦様に出会う。人と仏教が出会う場で、豊かな心が育まれそうです。


 釈迦堂はこのほど、地元「西陣」の名を冠して「西陣釈迦堂」という愛称がつけられました。

※釈迦堂は、特別公開終了後、毎月25日の開帳日と、12月8日(浄土会)、2月15日(涅槃会)、4月8日(釈迦の誕生を祝う降誕会)の年中行事の日に拝観することができます(開始時間はいずれも2時から)。
★浄福寺通りにある浄福寺(じょうふくじ)です。

浄福寺は延暦年間(782〜802年)に天台宗の寺として建立され、当時は京都二十五大寺の一つに数えられていました。
室町時代末期の大永5年(1525年)に後柏原天皇から念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、その後何度か移転を繰り返し、元和元年(1615年)に現在の場所にに定まりました。

浄福寺(じょうふくじ)は、朱塗りの山門が浄福寺通に面している。「日本最古の違法建築の寺」として知られている。引接地蔵と呼ばれる地蔵尊が安置されている。赤門があることから赤門寺、村雲(むらくも)寺ともいう。山号は恵照山(えしょうざん)。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 江戸時代の洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第14番札所、札所本尊は浄土引接地蔵。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代-平安時代、延暦年間(782-806)、創建されたという。奈良興福寺の学僧・賢憬が葛野郡村雲に堂宇を建立した。唐より将来した釈迦如来像を安置したという。当時は、二十五大寺のひとつとされた。(『拾芥抄』)。当初は天台宗だった。
 また、平安時代、896年、第58代・光明天皇中宮・班子(はんし)が建立したともいう。天台宗と法相宗の年分度者2人を出す。定額寺に列せられ、「浄福寺」の額を贈られたという。(『類聚三代格』)
 901年、宇多法皇(第59代)は、母・班子のために当寺で一切経を供養する。(『日本紀略』)
 912年、焼失する。
 960年、焼失した。
 天台僧・良源(912-985)が再興する。
 再び焼失する。
 鎌倉時代、1276年、第91代・後宇多天皇の勅により、一条村雲に移る。以後、村雲寺とも呼ばれた。(『拾芥抄』)
 1318年、後宇多天皇の命により、鎌倉・建長寺の元暁が住した。
 室町時代、1344年、祈願寺となる。室町幕府初代将軍・足利直義が300貫文を寄付する。(『浄福寺由緒書』)
 1525年、第104代・後柏原天皇は、知恩院・超誉存牛に帰依し、当寺の三昧堂建立を許し、「念仏三昧堂」の勅額を寄せる。以後、浄土宗を兼学とする。
 1572年、知恩院末寺となる。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、相国寺門前北に移る。
 江戸時代、1615年、現在地に移る。京都所司代・板倉勝重が援助したという。
 1628年、鐘楼が再建される。 
 寛文年間(1661-1673)、浄土引接地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 享保年間(1716-1736)、鐘楼、南門を除き焼失したともいう。
 1719年、焼失したともいう。
 1730年、焼失したともいう。
 1731年、西陣焼けでは焼失を免れたともいう。(『西陣天狗筆記』)
 1731年から1733年(1733年とも)、現在の本堂が再建されたともいう。
 1736年、方丈が再建される。
 1756年、釈迦堂が再建される。
 1788年、天明の大火により焼失する。本坊は類焼を免れた。(『翁草』)
 幕末、境内は薩摩藩下級武士の宿所となる。藩士らは「浄福寺党」と呼ばれる。
 近代、1887年、境内に当寺、建仁寺、本圀寺、妙覚寺による共済学校が開校する。現在の浄福寺幼稚園の前身となる。
 1985年、本堂以下9棟が京都市指定文化財となる。
◆賢憬 奈良時代の法相宗の僧・賢憬(けんけい、714-793)。尾張国に生まれた。興福寺の宣教に師事、754年唐の僧鑑真を難波に迎え、755年旧戒を破り鑑真に具足戒を受けた。758年唐招提寺に一切経を奉納。774年律師。778年頃に大和国室生山で延寿法を修し山部皇太子(第50代・桓武天皇)の病を治した。780年、多度大社神宮寺に三重塔を建立、宝亀年間(770-780)に室生寺を創建した。784年大僧都。785年最澄の戒牒や『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に、僧綱の一人として署名した。793年の平安遷都選定に際し山背に派遣される。比叡山文殊堂供養で導師をつとめた。賢m(けんきょう)、尾張僧都、尾張大僧都とも呼ばれた。
◆班子女王 平安時代前期の女御・班子女王(はんしじょうおう、833-900/853)。父は仲野親王。時康親王(第58代・光孝天皇)の即位前に妃となる。定省親王(第59代・宇多天皇)、為子内親王ら4男4女を生む。884年、光孝天皇即位により従三位女御、887年宇多天皇即位により皇太夫人、孫第60代・醍醐天皇即位により皇太后となる。897年、醍醐天皇に娘・為子内親王を入内させる。生前、藤原時平による妹穏子の入内を拒み続けた。
◆仏像・仏画  本堂内陣に須弥壇上に本尊阿弥陀如来像を安置する。木彫漆箔、胎内背部に平安時代、「永長元年(1096年)」の銘が入る。
 釈迦堂に、三国伝来と伝える釈迦仏を安置する。
◆地蔵 地蔵堂に地蔵菩薩立像を安置している。江戸時代作、室町時代後期ともいう。右手に錫状、左手に宝珠を高く掲げている。円光の光背を背負い、極彩色。像高2m。
◆障壁画 本堂裏堂壁画は江戸時代の鶴沢探鯨(?−1769)筆「拈華微笑図」。
 方丈障壁画は江戸時代から近代の山田文厚(1846-1902) 筆「天井龍図」の鳴き龍、江戸時代の岸駒(1756/1749-1839)筆「十六羅漢図」「虎の絵」。
◆建築 江戸時代中期の浄土宗寺院の伽藍配置様式を伝えているとされる。本堂ほか8棟(釈迦堂<1756>、方丈<1764>、書院<1734>、玄関<1734>、鐘楼<1628>、南門<1657>、東門(赤門)<17世紀前半>が京都市指定有形文化財に指定されている。
 本堂は江戸時代、1731年の西陣焼けでは焼失しなかったといわれている。ただ、この時焼失し、その後再建されたともいう。1733年に再建されたともいう。1731年から1733年に再建されたともいう。
 1666年、幕府より「三間梁機制」という建築に関する御触書が発せられた。「寛文八年令」の『御触書寛保集成』というもので、全国の寺院に適用された。建物の上屋の梁間は3間(19.5尺=5.9m)内に制限される。桁行の規制はなかった。本来は、武家屋敷の伊達家愛宕上屋敷の規制のために設けられた、1643年の御触書に端を発している。1657年には町人屋敷にも拡大され、 さらに規制は全国の寺院に及んだ。その後、8代将軍・吉宗の「享保の改革」(1716-1745)で幕府は規制を厳格に運用するようになったという。
 寺では、梁に規制があるため、桁を伸ばすことで広い堂内を確保しようとした。南の入母屋造の礼堂と北の寄棟造の仏殿の間を、両下げ造の「合の間」で繋いだ複合建築になっている。外観は南北に二つの建物が並列するように見せ、内部は二つの部屋を一つの部屋とし、奥行き9間の大広間を確保した。役人は違法ともいえず、この「日本最古の違法建築」を黙認したという。入母屋造、重層、本瓦葺。
 地蔵堂は、四柱造、本瓦葺。
◆絵解き法話 「絵解き法話」が行われている。江戸時代の木版画で森田易信筆の「仏説阿弥陀経変相 善光寺蔵版」(1848)による浄土宗の絵解き法話の例。釈迦が説いた浄土三部経の一つ「阿弥陀経」の「極楽」より。
 釈迦は、祇園精舎で大勢の弟子を前に極楽について話した。極楽では阿弥陀仏が人々に教えを説いている。極楽には、七重の垣根、網飾り、並木があり、樹木は金、銀、青玉、水晶で、池は七宝でできている。蓮の花は青、黄、赤、白の4色に咲きそれぞれその色の光を放っている。人は蓮の葉の上で戯れ、新しく極楽に生まれた人は合掌する。極楽には、いつも清らかな音楽が流れ、黄金の大地には花が降りそそぐ。人々は、毎朝、他の仏の国に飛んでいき、その仏を花で供養している。昼には極楽に戻り、食事をしてその後は瞑想や散歩をする。美しい鳥が一日に六回 仏教の教えを説いて鳴く。さわやかな風が吹いて、人々は「仏・法・僧」を念じている。
 阿弥陀仏の光明や寿命は無限である。一心不乱に念仏を唱えると、臨終の際に阿弥陀仏と菩薩が迎えに来るものという。
◆十王図 室町時代、1489年、土佐光信筆、絹本著色「十王図」(重文)が伝わる。十王図とは、冥界に棲むという10人の王を描いた絵のことで、読み書きのできない人々に対して、これらの絵解きをすることで仏法と行いを戒めたものという。
 人はその没後、多くは中陰と呼ばれる存在となる。人の死後7日後毎に、その後は100日、一周忌(1年後)、三回忌(2年後)の節目に、これらの王の前で順番に生前の罪業を裁かれるという。通常は7度の裁きが待ち受け、決まらなければ追加の審理が3回行われる。
 もとは、中国で仏教、道教思想と習合したもので、日本では、平安時代末期の末法思想、冥界思想、儒教思想も加わる。鎌倉時代には本地仏がそれぞれの王に対比された。また、独自の三途の川(賽の河原)、奪衣婆(だつえば)、懸衣翁(けんえおう)などの概念が加わった。江戸時代には十三仏信仰も生まれた。
 十王、@秦広王(しんこうおう)は仏教の五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒)を審理する。A初江王は殺生について、B宋帝王は邪婬について、C五官王は生前の言動について、D魔閻王は生前の悪業のすべてを浄玻璃の鏡に写し、閻魔帳により指摘する。E変成王(へんじょうおう)は、閻魔王の報告に基づき裁きを下す。F泰山王は六の鳥居(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を示し、自らに選ばせる。G平等王は、改心できないものを裁く。家族、親族による追善供養によりその罪は軽減され救済される。H都市王とI五道転輪王は平等王に同じ。
 三途の川(賽の河原)とは、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる。奪衣婆とは、三途の川を渡った衣領樹(えりょうじゅ)の下で待つ。懸衣翁は亡者から剥ぎ取った衣類を衣領樹の枝にかけ、罪の重さをその枝のしなり具合で測る。
 俗信として子供は、親より先に死に親を哀しませた不孝により三途の川を渡れない。生前の布施行を行う間もなかったため、親の供養のために賽の河原で石を積み布施行をし続ける。だが、積み石が完成する前に鬼が塔を破壊してしまう。ただ、地蔵はそうした子供をいつも見守っている。地蔵は、この世とあの世を自由に行き来し、地獄で苦しむ者、苦悩する者をも救うという。
◆天狗伝承 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失するが本坊は類焼を免れた。東門(赤門)の手前で火勢は止まったともいう。伝承があり、この時、鞍馬天狗が赤門に飛来し、大きな団扇で扇いだので火を食い止めたという。 
◆文化財 室町時代、1489年の土佐光信筆「十王像」10幅(重文)(京都国立博物館寄託)は、かつて宮中の仏事に使われていたものを、1530年に第105代・後奈良天皇より贈られた。
 山田文厚筆「寒山拾得之図」。
 鎌倉時代の木版画、「阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図」2幅(重文)(東京国立博物館寄託)。室町時代、土佐光信筆「阿弥陀教変相図」。「観無量寿経曼荼羅(当麻曼荼羅)」「無量寿経曼荼羅」「法然上人涅槃図」「選択集十六章の図」。江戸時代の画僧・古かん(石+間)(1653‐1717)筆「法然上人絵伝」。
◆薩摩浄福寺党 幕末、薩摩藩の京都藩邸は錦小路辺にあった。また、相国寺の西に二本松藩邸が新設れた。さらに、浄福寺の客殿、本坊などを宿所としたという。20人ほどの下級武士が集い、「浄福寺党」とも呼ばれた。当時の薩摩藩士が付けたという刀傷が書院玄関の柱などに残されている。
◆島津歳久 室町時代から安土・桃山時代の武将・島津歳久(1537-1592)。島津貴久(たかひさ)の3男。通称は金吾。薩摩祁答院(けどういん)領主。1587年、豊臣秀吉の九州の役で兄義久は降伏したが、最後まで抵抗し秀吉に面会しなかった。歳久領内を秀吉が通行した際に、家臣が秀吉の駕籠に矢を放ったこともあるという。1592年、島津氏家臣・梅北国兼による肥後佐敷での梅北一揆が起こる。秀吉の朝鮮出兵への不満だったともいう。国兼は戦死し、その遺骸は晒された。その妻も火炙りに処られた。一揆に歳久の多くの家臣が関わったとして、歳久は秀吉により薩摩の竜ヶ水で自刃に追い込まれた。
 歳久の首は、肥前名護屋城の秀吉の元に送られ、首実験の後、一条戻橋で晒された。歳久の従兄弟・島津忠長は、大徳寺の玉仲とともに、市来家家臣に首を盗ませ浄福寺に埋葬したという。近代、1872年、歳久末裔の日置島津家14代・島津久明が薩摩に遺骨を持ち帰る。帖佐(鹿児島県姶良町)の総禅寺に埋葬されていた胴とともに、竜ヶ水の平松神社(心岳寺)に改葬した。その後、大乗寺跡(日置市)に改葬されたという。兄義久は今熊野観音寺に墓がある。
◆塔頭 常照院、玉林院、松声院、雲松院、長徳院があったという。
◆墓 江戸時代の第119代・光格天皇皇女霊妙心院(1811-1811)、江戸時代前期医師・古医方の名古屋玄医(1628-1696)、室町時代から安土・桃山時代の富商・粽菓子商の川端道喜(?-1592)、室町時代から江戸時代の能楽・狂言師・鷺流初代の鷺仁右衛門(1560-1650)、江戸時代から近代の日本画家・山田文厚(1846-1902) など。
 安土・桃山時代、1592年に豊臣秀吉に逆らい自刃に追い込まれた薩摩藩士・島津歳久(1537-1592)が一時寺に埋葬されていた。近代、1872年に郷里に遷され改葬された。
 江戸時代後期の歌人の柳原安子(1784−1867)は正親町三条実同(おおぎまちさんじょう さねどう)の娘。柳原均光と結婚。香川景樹に学び桂門の女流歌人、法号は桂芳院。
◆木 クロガネモチ(上京区名木)、ケヤキ(上京区名木)、玄関前に菩提樹(6月初旬開花)、沙羅双樹。
【浄福寺】
住所:京都府京都市上京区浄福寺一条上笹屋2−601
TEL:075−441−0058
HP:http://www015.upp.so-net.ne.jp/johukuji/index.html
アクセス:
◆京都駅前より
市バス9号系統「堀川今出川」
  ↓ 乗り換え
市バス201号系統「今出川浄福寺」下車

posted by kisebeauty50 at 19:51| Comment(0) | 神社・仏閣・仏像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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